修正には一般に大小さまざまな程度や意味がありますが、ここでは技法面での修正ではなく、辰も基本的な点である、
なぜ修正「版」としているのかについて説明します。質的研究法としてのM-GTAの全体特性についてです。
次の小文は弘文堂のM-GTAシリーズのチラシ作成のために書いたものです。時間がない中でササッと書いたのですが、読み返してみてM-GTAの全体特性を理解しやすい内容になっていると思います。引用します。
データに密着した分析から独自の理論生成を可能とする質的研究法として
1960年代に提案されたグラウンデッド・セオリー・アプローチ(GTA)は、看護・保健、ソーシャルワーク、介護、教育、リハビリテーション、臨床心理などヒューマンサービス多領域を中心に広がり、また近年の質的研究法への世界的な関心の高まりの中で、その古典としての位置を占めるとともに、独自の曲折と展開をたどってきました。GTAとは何であるのか、と、GTAはいかに実践できるのか、を両軸にこれまで多くの議論と技法面の工夫が蓄積されてきています。
原石としてであれ、すべての可能性は最初の提案の中にあります。そして、その可能性を今日的状況の中で具体的な形にしていくことが課題となります。データを重視し理論の生成までを目的とする研究姿勢は、何のための理論かを問うことにもなります。研究者のためではなく、ヒューマンサービスの実践を支える作業仮説として必要との基本認識があります。研究結果の実践的活用は、GTAにあっては副次的目的ではなく一義的目的であります。そこから、研究者と実践者の新しい相互的関係の可能性が拓かれます。
当然、原石を磨く作業は、その過程で提唱者たちの限界を乗り越えていくことを意味します。数量的研究法に親和的なバーニー・グレーサーと意味の生成過程を重視するシンボリック相互作用論のアンセルム・ストラウスという対照的な研究スタイルの二人の社会学者が提唱したGTAは、いうなれば質的研究法一般を考える上で検討すべき主要な問題をほとんど網羅していることになります。GTAを論ずることは質的研究を論ずることでもあります。
本シリーズはオリジナルGTAの可能性を正面から受け止め、研究論、認識論、技法において独自に修正を行ない、より実践しやすいように改善した修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ(M-GTA :
Modified Grounded Theory Approach
)の提示と、それを用いた研究例、モノグラフから構成されています。各モノグラフの内容自体が領域は違えど人間理解に向けてのすぐれたアプローチになっています。それぞれに著者である生きた人間=研究者・実践者が中心にあり、方法や技法だけでなくM-GTAが強調する主要特性である【研究する人間】とは何であるのか、何をするのかを具体的にあらわしています。双方を突き合わせることで読者の中に一つの像が結ばれ、研究に向かう態勢が形成されると考えています。
さて、ここで強調したい点は、「原石としてであれ、すべての可能性は最初の提案の中にあります。そして、その可能性を今日的状況の中で具体的な形にしていくことが課題となります。」と「原石を磨く作業は、その過程で提唱者たちの限界を乗り越えていくことを意味します」です。原石とは言うまでもなく、未完のままに、あるいは、それ故に強烈なメッセージ力を持った、オリジナル版です。M-GTAは技法面で活用しやすく修正されただけでなく、原石の可能性を私なりに形にしたものと言えます。提唱者たちのその後の展開を範とするのではなく、あくまでオリジナル版にこだわり、彼ら二人の限界を越えることでその可能性を実現しようとしています。
したがって、修正版と言っても、ストラウス・コービン版とも、90年代初めの対立後に先鋭化しているグレーザー版とも、あるいは、最近のシャーマズの試みとも距離をおいたところにM-GTAは位置しています。
M-GTAは、切片化という技法を用いません。この技法はオリジナル版を含め、上記のすべてのGTAに共有されているので、この点をもってM-GTAはGTAではないという論点もありうるでしょう。しかし、それは表面的、形式的な見方で、原石であるオリジナル版の可能性の検討から生まれたという経緯からして、そして多くの主要な考え方を継承、発展させている点においても、M-GTAはGTAに起源をもつものであり、グレーザーとストラウスの独創性に敬意を表し、GTAの修正「版」と呼んでいます。別の名称にした方が混同を回避できるのでしょうが、そうしないのは以上の理由によります。
すでに拙著で論じてあるように、切片化とは技法にして方法論でもあり、認識論と不可分の関係にあります。この技法は素朴な客観主義に依拠しています。なお、シャーマズは技法としては継承しつつ、社会的構成(構築)主義の認識論を導入しているのですが、内部において不具合を起こしかねない不安定なものにみえます。
質的データの意味の解釈は研究者が一定の問題関心とテーマのもとに行なう作業であり、その適切さを客観主義に求めることは不可能です。では、その対極に位置する構築主義に足場を移し、意味の共同生成性とそのプロセスも含めた「理解」、自明性へのセンシティビティに比重を置けばよいでしょか。M-GTAはこの両者に対して批判的な独自の位置を求めます。換言すると、グレーザーの一貫した認識論的立場(客観主義)と、本来的にストラウスの立場であり近年より鮮明になってきた認識論的立場(構築主義)を、同時にいかに乗り越えられるかという課題です。質的研究は客観主義の限界を構築主義によって克服できるとは考えていません。この問題は、構図としてすでに原石、オリジナル版から読み取れるのですが、同時に、現在、質的研究を論ずる上でもっとも重要な問題のひとつでもあります。
客観主義に基づく研究は一般化可能な知識の生成を目指します。一方、構築主義は知識とはそもそも非一般化可能なものであるとし、言わば微分的にローカル化していくところで成立する知識を対象にします。構築主義の重要性は言を待たないのですが、閉じた知識となる点に難があります。この両者に対して、M-GTAは、限定された範囲内において一般化し得る知識(グラウンデッド・セオリー)の生成を目的とするのですが、この限定的一般化は分析の結果提示される知識だけで可能となるのではなく、【研究する人間】が【分析焦点者】を介して実践するという条件設定と、応用者が【分析焦点者】の視点を介してそれを現実場面において実践活用するという条件設定の組み合わせによって成立する。ここが重要なポイントです。客観主義と構築主義をどちらも排除することなく、むろんいずれか一方にくみするのではなく、両者を統合する枠組みをこのように設定しているのです。
M-GTAがなぜ実践、とりわけヒューマンサービス領域における実践を強調しているのかを理解すればM-GTAの戦略性が見えてくるでしょう。社会的活動としての研究が果たすべき役割(研究結果の実践的活用)という課題が一方にあり、他方では、分極化へと加速する知識のあり様を克服する研究的立場と方法の模索が時代の課題となっているのであり、これらは実はヒューマンサービス領域において一体のものと課題設定できるのです。そこにM-GTAの可能性をおいています。
(担当・木下康仁、2009年HP開設時)
M-GTAでは、分析テーマと分析焦点者の2点からデータをみていくとされていますが、なぜそこまで絞れるのでしょうか。また、どのように「みていく」のでしょうか。
どのような質的研究法であっても、データあるいは調査記録を何らかの方法で扱っているものです。その「方法」をコーディングと総称できるのですが、数量的研究法の用語に限定する立場や研究調査の政治性 ( 権力性
)
を重視する立場からはそれぞれの理由からコーディングと呼ぶことには異論があるかもしれません。この問題も「…とは何であるのか」と「…はいかに実践するのか」という基本的な視点に分けて考えると効果的です。この視点は以前
GTA
のわかりにくさを解決するために導入したのですが、他の質的研究法の理解にも使えます。…の部分には個別の研究法を入れればよいのです。例えば、「エスノメソドロジーとは何であるのか」と「エスノメソドロジーはいかに実践するのか」、あるいは「ライフストーリーとは何であるのか」と「ライフストーリーはいかに実践するのか」、あるいは同様に「ナラティブアプローチとは何であるのか」と「ナラティブアプローチはいかに実践するのか」等々。比重や明示性はさまざまでも、どれも「方法」をもっています。データや調査記録のある部分に着目したり抜き出したりすることが行われているのは、解釈のための基本的な作業だからです。質的研究は「方法」に関して従来多くの労力をかけてこなかったのですが、その明確化に向けて近年多くの論考がみられるようになりました。ただ、「…とは何であるのか」と「…はいかに実践するのか」のバランス具合い、統合度に注意をはらい個々の質的研究法について批判的に理解することが大事です。学習者は手っ取り早く身につけようとして「方法」に関心を集中しがちですが、それだけでは不十分です。
さて、 GTA の場合、「何であるのか」は当初から明快でした。そこに大きな期待と支持が寄せられたのですが、その一方で、
「いかに実践するのか」つまり、その方法はわかりにくいものでした。このあたりのことはすでに説明してありますので省略しますが、その要点がデータの切片化にあるのは理解できました。わかりにくさは切片化という技法だけではなく、それを根拠づける考え方にありました(「グレーザー的呪縛」の問題です)。ちょっとくどくなりますが、「切片化とは何であるのか」と「切片化はいかに実践するのか」のそれぞれと両者の関係のあいまいさです。当初からあったグレーザーとストラウスの微妙なバランスです。質的研究の一般的なコーディング法と技法としての切片化の関係というよりも、問題は
GTA における切片化の位置づけです。
いろいろと検討したのですが、結果的に、 GTA
の可能性は切片化という技法に依拠するのでは十分達成できないのではないか、むしろ逆に研究法として矮小化する方向になるのではないかと考えるようになりました。端的に言えば、「何を、どのように」 (how)
を考えていくと、別の視点、「誰が、何のために」 (by whom)
がそれ以上の重要性をもって浮上してきたのです。前者を実際に行うのは後者だからです。後者を論ぜずして前者だけを語ることはできない。これは
GTA
や質的研究法に限られることではなくむしろ研究一般に言えることで、研究者はえてして自分自身を問わない傾向があります。数量的、質的を問わず専門的研究者にあっては与件化しやすく、また、大学院生も研究することが差し迫った課題のためこの部分を飛ばしてしまいやすい。それでいて質的データの意味の解釈をしようとする。しかも、そこに切片化という技法が客観性を担保するという位置づけのもとに導入されてくるのは教育的でもないし、研究自体に危うさを感じさせます。
そこから、データの切片化はしないということと【研究する人間】の視点(誰が、何のために、社会的活動としての研究を行うのか)の導入が不可分のものとして M-GTA
を構成していきます。【研究する人間】として、自分自身をまず対象化すること、自分の問題関心をできるだけ自覚化することを重要な要件としたわけです。これはどのような研究であれ当然要請されることであると同時に、質的データの解釈に際しては特に有効な方法となります。研究を行う自分自身を抽象的な存在とせず、意義と目的を踏まえた具体的な問いを立て、それに向かう存在として自分の立ち位置を確認できるからです。客観性の要件に応えようとせずとも、恣意的な解釈にならない、独自の方法を考案することは、オリジナル版で提示された考え方を活用、再編すれば十分可能です。
M - GTA はその一つの形です。
【研究する人間】の視点は、研究上のカウンターパートとして【分析焦点者】というもう一つの人間像とセットになります。【分析焦点者】とは一定の条件設定で定義される集合的他者で、面接対象者の選定の基準になり、データの解釈の際に経由する視点となり、分析結果の一般化可能な範囲を規定するものとなります。
M-GTA では分析上の位置づけだけでなく、研究法としての位置づけにも関係して、インターラクティブ性3位相の中で説明してあります(『ライブ講義 M-GTA 』,弘文堂, 2007 年, 88 - 99
頁)。
では、切片化しないとすれば、データをどのように扱えばよいのかという問題が生じます。分析者の先入観が入らないように、データを細かく分けてそれぞれについて意味を考える切片化という方法は、データの意味を考える前に、細かく分けることから始まります。非常に煩雑な作業になりますが、論理的にはできるだけ細かく分ける作業から始める必要があります。
その方法を取らないとすれば、工夫が必要になります。データとの最初の接点をどうするのか。ただ、これはむずかしいことではなく、【研究する人間】の視点にたてばむしろ常識的に考え付くものです。それが、
M-GTA
で用語化している分析テーマの設定です。これまで機会あるごとに強調してきているように、分析テーマの設定は分析の成否にかかわる非常に重要な点です。自分の問題関心を「問い( research
question
)」の形にしたもので、かつ、データに即してみていけるように、データの具体的で多様な内容を検討していけるようにバランス設定されたものです。簡単そうに見えて実際には簡単なことではなく、分析テーマは思いつきで得られるというよりも時間をかけて練り上げていくものです。その過程で、指導や助言が大切になります。そして、分析焦点者と合わせて分析テーマとの関連でデータをみていき、関連する箇所に着目して分析ワークシートによる概念生成を進めていきます。データに対して「着目」という選択判断をするためにはそれを導く視点が必要で、
M-GTA
は分析テーマと分析焦点者を用います。切片化は逆に、方法論としてこの選択判断を迂回し、まず細分化し、その部分の意味を検討することから出発します。したがって、最初ほどこの作業は細かい必要があり、その後は比較検討から切片化するデータ部分は選択判断の対象となります。方法にして方法論でもあると言う所以です。継続的比較を行う時に最初の比較材料をどのようにして得るかという問題ですが、データの文脈性を重視するかどうか、調査分析を行う人間に思考、判断、選択についてどこまで自覚化、意識化を求めるか、が両者の主要な相違点になります。
だから、一見似たようなことをしているようにみえても、似て非なるという言い方があるように、作業の表面的な類似性(その限りでは、どの質的研究法も何らかの「方法」をもっている)と作業の意味と目的とは異なります。
要するに、データとの最初の分析的接点にこだわればよいのです。データを前にして、あなたは何を考えどうするのか、それはなぜかを想像すればよいでしょう。
M-GTA では分析テーマと分析焦点者の 2 点からデータをみていきます。意味合いとしては、目一杯集中してこの 2
点だけからみていく、ということです。その方が実際にはより柔軟な対応ができます。逆のように思われるかもしれませんが、選択判断は比較で行うので比較基準を明確化しておけば修正の判断もしやすいからです。
データはディテールが豊富なためこの 2
点を意識していても、内容に触発されてさまざまなアイデアが浮かびますが、それらはこまめに「理論的メモノート」に記録しておき、まずはこの
2
点に集中してみていきます。それで大丈夫なのは、 2
点にまで絞るからと言って、一度決めたら絶対変えないという硬直したものではないからです。分析テーマはデータ収集に入る前に考え、そして、データ収集後にデータの内容全体を踏まえて再検討し、さらにデータの分析に入ってからも必要に応じて調整していきます。初期段階の分析作業は実は分析テーマの確定でもあることが珍しくないものです。分析テーマと分析焦点者によってデータをふるいにかけるのではなく、データの具体的多様性にオープンになるよう必要な場合には分析テーマを変えるという調整方法をとります。
分析テーマが安定するまでにていねいな検討が必要になるのとは対照的に、【分析焦点者】の設定で迷うことはまずありません。分析テーマとの関係で焦点を広げるか絞るか、つまり、条件を追加し対象者範囲を広げるか、条件を減らして狭めるかの調整になります。
分析テーマと分析焦点者についてこうした調整をすると、二つ目の論文につながるもう一つの分析テーマが設定できる場合もあります。
分析テーマに「~のプロセスに関する研究」式にプロセスという言葉をあえて入れるのは、最終的に動態的プロセスをとらえようとしているからです。ワークシートで概念生成をする時には、その概念が、明らかになるであろうプロセスのどこに、どのように関係しそうかを常に意識していきます。分析結果がすぐに出てきそうな場合はまだ分析テーマが練られていないと考え、再検討します。自分の研究のオリジナリティは結果で具体的になるのですが、実は分析テーマの設定と深く関係しています。大変そうに思えるでしょうが、重要であるほどそういうもので簡単に、楽には通過できないものです。どの研究法でも難所はいくつかあります。しかし、越える道筋も用意されているはずで、
M - GTA
では分析テーマをていねいに検討すればするほど、データをみていくときにオープンな姿勢をとることができます。データの多様な部分に気づけるようになるからです。分析テーマの設定過程でいろいろな点から検討を加えているので、自分の中にたくさんのアンテナを用意できているからで、データの内容的豊富さにセンシティブになれます。データに対するオープンな姿勢とは単なる心構えではなく、こうした検討作業を通して経験的に身につけていくものです。
(担当・木下康仁、2009年HP開設時)